【英国研修記】ロンドンの朝は早い
「ロンドンの朝は早い」などという紋切り型の言い方がある。それじゃあ、例えばプノンペンの朝は遅いのか。そうではあるまい。かような言い方は、要するに、都市のせわしい朝の様子を伝えんとするもので、テレビの紀行番組などでは濫用されてきたきらいがある。ために、手垢の付いた表現になりおおせている。使わぬがよかろう。
書いた人
町純路 / Machi Jinji
富山生まれ 木工職人 クライマー
2020年木製のクライミングホールドCONOURÉを企画
ロンドンの朝
夜明け前
ところで、ロンドンの朝は早い。AM5:30。朝まだきPaddingtonパディントン、セントメアリー病院前のバス停から、同行の松原さんとともに二階建てバスに乗り込んだ。こんな時間だというのに座席はかなり埋まっている。乗客はといえば、昼間はあまり目につかない労働者がほとんどである。夜の現場からの帰りか、あるいは早朝からの仕事か。このバスにしても、24時間周っている路線もあるという。2階の前列に腰を下ろしたが、さすがに車内のミラーでちらと後方の様子を確認する。
目的地へ
20分ほどでVauxhall駅に到着。乗客のほとんどがここで降りたようだ。
はたして、朝6時からやっているクライミングジムは実在するのか。旅程の中、この日、この時間しかない、とGoogleのレヴューを頼りに来てはみたものの、半信半疑である。Google mapは、目的地を駅のすぐそばに示している。それに従って暗い高架下をくぐって行く。
はたせるかな、看板が出ていた。明かりが点いている!「Vauxwall Climbing Centre」(店名は、むろん、Vauxhallという地名とwall=壁をかけている)。レンガ造りのガード下を利用した店舗は、新橋あたりの呑み屋を思わせる。尤もこちらのほうはずっと今様に洒落ている。
Vauxwallというロンドンのクライミングジム
店内に入ると、長身の若者がすてきな笑顔で出迎えてくれた。体格といい、指の形といい、間違いなくクライマーである。彼の手ほどきで、はなから読む気などないディジタル誓約書のYESにチェックを入れていき、変テコな質疑応答ののち受付終了。それにしても、かように早朝に来た東洋人ふたり組みをいぶかる様子もなく、いかにも平常運転である。この旅を通じて思うところだが、ロンドンは多様である。往来では見た目も話し方も様々な人と行き交う。
着替えたら早速登攀開始である。出勤前の「朝活」なのか、さすがにまばらながら、クライマーはちらほらいる。ローカル・ルール(そのジムや地域に特有の決まり事)などを教えてもらうこともあったが、さりとてべたつくこともなく、ほどよい距離を保ってくれる。ここでも平常運転である。
ふと気がつくと、後ろにRadioheadのOK computerがかかっているではないか。発表当時私には難しすぎた。だがこの朝、この静かで都会的な空間には相応である。あらためて聞くといいアルバムじゃあないか、それにすごくロンドンらしいや。-いやはやそれにしても、ロンドンに居るなんて、しかも朝からジムで登っているとは!あらためて驚き呆れる、何度も、何度も。(あとでわかったことだが、このアルバムには「Climbing up the walls」という曲が収録されている。にくい選曲だったらしい。)
木製ホールド
「Perma-Set」永久保存される課題
さて、クライミング、ボルダリングというスポーツについての一般的な講釈はここでは到底できないので、他所を頼もう。また、このジムの特徴あるいは日英での相違について詳しく語るだけの材料も能力も、私には毛頭ない。ただひとつ、やらぬ人には専門的に過ぎようが、木製ホールドの扱いについて記しておくことにする。
このジムには、木製ホールド(※ホールド=登るための手がかり足がかり)のみで構成されたコースがいくつかあった。グレーディング表(課題の難易度の目安を示した表)には、木製ホールドの欄に「Perma-Set」と書いてある。permaとはすなわちpermanentのことで、Perma-Setはつまり永久保存の課題の意である。一般にジムの課題(登るときのルート)は、ホールドの位置を替えることでつぎつぎと更新されていくものである。ジムはそうやってクライマーにつねに新たな楽しみを提供するのだが、このジムでは木製ホールドで作られたルートだけは配置換えをしないというのだ。
基準として
それは、どういうわけか。店内にある説明をやや噛み砕けば次のごとくか。
課題がつねに更新されていくジムにあっては、V1ならV1といった同じ難易度で課題を作っているつもりでも、そこは人間のすること、簡単になったり反対に難しくなっていくおそれがある(現に例えば、「この3級、辛すぎ!」のごとき非難は縷々噴出するのである)。しかし木製ホールドは、チョーク(滑り止めの粉)の乗りが悪いために、樹脂製ホールドとはちがって定期的に水で洗わなくても、持ち具合に変化がない。故に、洗わずに壁に残しておくことができるのである。そうして残しておいた課題は、難易度の基準となる。(課題を作る人「ルート・セッター」は、新たに課題を作るとき、それを基準にすればいいということになる)それに、更新されない課題があるということは、長期間打ち込み続けられる課題があるということ。それは、自分がいかに成長(または後退)したかを知る正確な指標となる。また、何か月、あるいは何年もかけて幾度となく打ち込んだ末にひとつの課題を成しとげるのは、無上の喜びである。以上、やれやれ。
課題への向き合い方とクライミング文化
なるほど我がクライミング人生を省みるに、たしかに、ひとつの課題を何か月もの間、希望と絶望の間を行き来しながら練習し、最後に成し遂げた時の嬉しさたるや、ちょっと他には替えがたいものがある。であるから、逆に言えば、苦労した末に攻略した課題には言い知れぬ愛憎があるため、配置換えに伴いそれが無くなってしまった時には、何とも言えず寂しいものである。あるいは、打ち込んでいる最中に課題が更新せられた時の悲憤といったらない。
最近のジムは、課題更新のペースが速い。速ければそれだけいつも新鮮な課題に取り組めるというものだが、速すぎるのも考えものだ。「経験の蓄積」が、触れられる形として残っていかないのである。来し方を振り返るためのよすががないのである。それでは店にも人にもしみじみとした味わいが出てこないというものだ。
このVauxwallでは、「Perma-Set」(永久保存の課題)でもって、店と客、両方のスタンダードを保っている。スタンダードというものを尊ぶ当地のクライミング文化の一端を見る思いであった。またそれが、木製ホールドの特性を利用したものだということも貴重な発見であった。そして、我が木製ホールドConouréが、かようなスタンダードとして使われる日を夢想してみるのである。
アドレナリンの過剰分泌のおかげだろうか。調子に乗らぬようビールを5杯までに留めたとはいえ、前日の郊外への遠足、それに続くpub crawl(パブのはしご)にもかかわらず、体がよく動いた。短い時間ではあったが、楽しいボルダリング海外遠征と相なった。
去り際、笑顔であいさつを返してくれた店員のお兄さんの鼻輪ピアスがキラリと光った。ありがとう、また来るよ!
書いた人 町純路 / Machi Jinji